何か新しいことをはじめている人、何かを発信している人。そういった人の多くは、何かしら自分なりの「哲学」を持っているように思えます。「自分が大切にしたい哲学」を考え、見つけることは新しいことを始めるときの手がかりになるのではないでしょうか。「いわてつがく」は、そんな思いのもと、さまざまなフィールドで活躍する人たちの「哲学」を紐解いていく連載です。
阿部 友昭(あべ ともあき)
一般社団法人 世界遺産平泉・一関DMO もち担当
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プロフィール:奥州市出身。水沢高校卒業後、文化服装学院へ入学。在学時より衣裳のアシスタントを経験し、専属スタイリストへ。25歳からはシューズメーカーに勤務し、販売員をしながらバイヤーとして海外へ買付を担当。その後、34歳で仏フレグランスブランドの販売員兼銀座店VMDとして従事。38歳の時にUターンで岩手に戻り、現在は世界遺産平泉・一関DMOの地域プロデューサーとして奮闘中。
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ー学生時代の阿部さんについて教えてください。
高校時代、仙台で開催された女性アーティストのライブを見て感動し、名前もわからなかったスタイリストという職業を漠然と志しました。当時私が通っていたのは進学校で、専門学校に進学する人は少ない環境でした。進学にあたり推薦には内申点が足りず、5人の先生を説得することにとても苦労したのを覚えています。
晴れて入学した文化服装学院では、仲間たちと制作した服のファッションショーをしたり、青春を取り戻したように毎日が楽しかったです。しかし、楽しいことばかりではなく、授業は課題が多く、スパルタ式で1日でも休むと大変でした。一週間も休むと授業に付いていけなくなってしまうので、休んだ友人宅に集まって、みんなで山積みの課題を手分けしてやったのを覚えています。通常、文化服装学院は2年で卒業ですが、私はデザイン専攻に進学し、次の年には学校でアルバイトさせてもらいながら、衣裳のアシスタントをしていました。
ーこれまでの仕事はどのような経験をされたのですか?
文化服装学院在籍中から衣裳アシスタントをし、オリエンタルランド(ディズニーランド・シー)のダンサー衣裳制作に携り、様々なアーティストの方々のライブ衣裳外注制作を担当しました。その後、専属スタイリストになり番組、雑誌、全国ライブ、海外撮影などに帯同しました。スタイリストを辞めてからは、34歳まで百貨店で紳士靴の販売を行っていました。インポートシューズの買い付けで半年に一度、イタリアに行きバイヤーや靴をデザインする仕事もさせていただきました。接客時に実際に見てきたアトリエや生産者の声を直に伝えることができました。しかし、紳士靴メーカーは不況続きで私の勤めていた会社も2度も倒産してしまいました。自分の好きを仕事にしようと思い、フランスのフレグランスメゾンのdiptyqueに勤めました。ちょうど新店舗のギンザシックスオープンに携わることができ、銀座店のVMDを担当させてもらいました。そして、たまたま趣味で描いていた絵が全世界のスタッフのコンテストで優勝したのをきっかけに、日本のイラストレーターとしても担当させてもらいました。
※VMD(ビジュアルマーチャンダイジング)=陳列や演出方法を工夫し、商品やサービスをより魅力的に見せる仕事
ー憧れのアーティストに帯同した時のエピソードを教えてください。
高校時代、初めて見たライブを見て感動し、その道を志しました。それから数年後、専属スタッフの一員として、リハーサルで歌っているのを間近で見た時は本当に嬉しかったです。その世界は業界内でも有名なほど厳しく、スタイリストに弟子入りしたときはアシスタントは10人近くいたのですが、早い人は3日で辞め、1週間でもう一人辞め、1年後気づいたときには自分1人だけでした。また、初めて海外にミュージックビデオの撮影で携わった際、そのアーティストさんは、普段自分で衣裳を決める方でしたが、私に対して、「このシーンに合う衣裳を選んで」と言って下さって、小物まで全て選んだものを着てくれたのが嬉しかったです。その後、ネイリストさんから「こんなこと滅多にないよ」と言われたのを今でも覚えています。
ーどうして、岩手に戻り今の仕事をしようと思ったか?
ずっと好きなことをさせてもらっていたので以前からもし両親に何かあったら地元に戻ろうと考えていました。Uターンした直後に、新型コロナウイルス感染症が発生したので、そういうタイミングだったのかなと今では思っています。岩手には安堵と、懐かしさは感じたものの20年経つと浦島太郎のような状態でした。昔バイトしていたお店もなくなっていたり、風景すらも変わってました。そこで地元を知るために岩手県で唯一Photoshopや Illustratorが学べる遠野職業訓練校に行きました。4ヶ月目に自分たちで探した企業で実習がありました。父や叔父が商工会議所で働いていたこともあり、私も何か地元のお役に立てないかと思い、世界遺産平泉・一関DMOで研修生としてお世話になり、そのまま就職させてもらいました。
ー世界遺産平泉・一関DMOについて活動内容をお聞かせください。
私が勤めているDMOとは、観光地域づくり法人(Destination Management/Marketing Organization)のことで、自然、食、芸術、風習など、地域にある観光資源に精通し、地域と協同して観光地域作りの司令塔になる法人です。一関市を盛り上げるためには、観光事業者だけでなく、あらゆる事業者と市役所が一体となって観光客をもてなす仕組みを地域全体で作る必要があります。現在全国に197のDMOがありますが、その中でも、観光振興に向けた地域の取り組みに積極性・先駆性が認められ、重点支援DMO(令和3年は37拠点)に世界遺産平泉・一関DMOは2年連続で認定されています。今よく言われているSDGsの持続可能な開発目標や地域経営の理念に通じています。創設した理事たちは一度は地元を離れた後、伝統ある家業を継いだ30〜40代の経営者たちを中心としたメンバーです。㈱イーハトーブ東北・㈱松栄堂・㈱マガジンハウス・世嬉の一酒造㈱・㈱京屋染物店・合同会社ひらいずむ・川嶋印刷㈱・㈲翁知屋の理事たちが各々の会社の代表取締役をしながら、いろいろな思いを持って活動をしていることに魅力を感じました。
毎月行われているもち食推進会議の様子
ー阿部さんが今取り組んでいることで注目してもらいたいところは?
現在は、DMOで一関市の委託事業で一関もち食推進会議の事務局をしています。もち食の普及、継承活動をしている事業者や有識者からなる団体です。もちフェスティバルやもちマイスター検定、もち本膳体験授業などもちの様々な事業を地域のもち事業者と協力しながら仕事をしています。一関・平泉に伝わるもち料理だけでも300種類もあります。1年経って徐々にもちの人と覚えていただけて、地元の方や全国の皆様にもちが愛されるように日々邁進していきます。
もちマイスター検定の打合せをしている様子
ー仕事をする上で大切にしていることは、どんなことでしょうか。
どこにいても自分ならではのオリジナルを出すように心がけています。いつも仕事の採用は役職もなく、いつも大勢いる中のひとりです。アシスタントをしていた時はお前の変わりはいくらでもいると言われたこともありました。ですが、通常業務を全力でして、余った時間で自分の得意分野をしていると誰かしらの目に留まり、いつのまにか自分のやりたかった仕事ができるようになっていました。それは職を変えてもです。サンキューレターを書くにしてもありきたりなことを書くよりは、顧客様のお名前をキャンドルのレタリングに見立てて書いてすごく喜んでもらいました。その一方でフランス本社から呼び出されて何度も怒られましたね。先代の社長はよくやったと笑ってくださいました。今ももちの担当をしながら趣味である絵を活かして、地元の手漉きの東山和紙の絵葉書を描いています。一関・平泉エリアの中尊寺や毛越寺などから正式な許可をいただき、15ヶ所の観光スポットを描いてます。
阿部さんが制作した東山和紙の絵葉書
ー最後に、これから新しいことに挑戦したいと考えている岩手の若者にメッセージをお願いします。
今はネット環境ですぐにいろんなものが見れてしまう時代です。だからこそ、世界に出て本物を見て欲しいと思います。最初は真似でもいいと思います。そして、本物に囲まれているとレベルの違いに挫折しそうになりますが、いずれ自分もそのレベルに達してくる時が来ます。そして段々と自分のオリジナリティーが生まれてきます。それを武器に何歳になっても、誰が何と言っても、自分次第で挑戦し続けてほしいと思います。
HP:https://hiraizumi-dmo.jp/mochi/?fbclid=IwAR2IgxDX-4CJQqbbEqdEAoZ9A3S3a1zgyj-4buWNzYh0gvetDzTmDRpblHM