取材対象者:日食なつこさん
取材対象者プロフィール:
日食なつこ(にっしょく・なつこ)。
1991年岩手県花巻市出身、ピアノ弾き語りソロアーティスト。9歳からピアノを、12歳から作詞作曲を始める。高校2年の冬から地元岩手県の盛岡にて本格的なアーティスト活動を開始。独特な中毒性のあるメロディーと力強い歌詞が、若い世代を中心に多く支持されている。FUJI ROCK FESTIVALなどにも出演、2019年1月に2ndフルアルバム『永久凍土』をリリースした。今年で活動10周年を迎える。
何か新しいことを始めている人、何かを発信している人。そういった人々の多くは、何かしら自分なりの「哲学」を持っているように思えます。「自分が大切にしたい哲学」を考え、見つけることは、新しいことを始めるときの手がかりになるのではないでしょうか。
「いわてつがく」は、そんな思いのもと、岩手県出身のさまざまなクリエイターの「哲学」を紐解いていく連載です。
第5回目は、シンガーソングライターの日食なつこさんにお話を伺いました。力強い歌詞とメロディーを生み出し続ける彼女には、どんな哲学があるのでしょうか。日食さんの幼い頃のお話から、たっぷりお届けします。
「誰も私に目を向けないで」。高校時代の暗黒期
私の音楽の哲学は、高校時代の経験が色濃く影響されているんですよ。けっこう暗黒期だったんです。
── 詳しくお聞きしたいです。
高校1年生のときの担任の先生が、勉強至上主義で、勉強さえできれば他は何をしてもいいという人でした。だからとにかく私は勉強を頑張って、一生懸命やっていたピアノもやらなくなりました。そ
れが正しいと思っていたから。でも、2年生になってクラス替えがあって、そのときの担任の先生は真逆だったんです。「勉強なんてできなくてもいいから、人に優しくあれ」みたいな。
── ふむ、ふむ。
それまで「勉強至上主義」でやってきたのに、突然「勉強なんてできなくてもいい」なんて言われたら、高校生の私は、それまでの自分が全否定されたような気になったんです。「じゃあ私が今まで捨ててきたものはなんだったの?」って。そのときに、今まで築いてきた足元がガラガラと崩れていくような気がして、気づいたときにはもう、周りが違和感や許せないものだらけになっていました。今考えたら、その先生が言っていたこともちゃんと拾っておくべきだったなと思いますが、そのときの自分は受け入れられなかった。そこで器用に立ち振る舞えなかった。昔からの頑固さが仇になりま
したね。そこからはずっと、「誰も私に目を向けないでください」という感じ。勉強もうまくいかなくなって、その他のメンタルもガクンと落ちて、するとあっという間に友達も離れていって。いろんな悪いことが一気に重なって、高校時代はずっと引きこもっていました。
諦めたら、自分の個性が欠けていってしまう
── そのご経験が、曲作りにも影響したと。
はい。それまでにも曲を作っていたんですけど、基本的に平和な曲が多かったんです。「友達」「幸せ」「平和」みたいな。でもその時期からは、できない自分をとにかく叩きつける曲がすごく多くなりました。
── 歌詞を拝見していると、「現状維持の事なかれ主義は何にも生み出しやしない(『Dig』)」や「果てなき自由は致死量の猛毒だった(『致死量の自由』)」など、グサっと刺さるものが多いです。
ありがとうございます。たとえお客さんが嫌な顔をしようと、今は、自分が書きたい曲を、自分のためだけに書こうと思っています。お客さんが増え始めた頃、「お客さんのために書こう」と思った時期があったんですけど、その頃に書いた曲ってやっぱり全然つまんなくって。人に聞いてもらうことを想定した曲って、やっぱり予測がつく歌詞、メロディーしか出てこない。だからそういうことはやめました。逆に言えば、自分のために書いた曲に対して共感してくださる人とだったら一緒にライブを楽しみたいと思えるし、逆にこれだけ赤裸々に表現した曲に対して共感しない人には、理解してもらえなくてもいいとすら思っています。
── ちなみに、その「暗黒期」はいつぐらいまで続いたんですか?
今もずっと続いています。全然抜けられていないですよ。
── そうなんですね……! どうやったらその時代から抜け出せるのでしょうか。
いろいろ諦めれば抜け出せるんだろうな、と思います。何が辛いのかを考えると、やっぱり妥協できなくて、それが日々自分を攻撃してくるからなので。たとえば街でポイ捨てをしているおじさんを見たら、「喫煙所が見つかんなくて大変なんだろうな」とか「しょうがないよね」って思うことってできるんですよ。できるんですけど、そこで「しょうがない」と思ってしまったら、自分の個性というか、今まで許せなかった自分の感性がどんどん欠けていってしまう。辛いけどあえて「ダメなものはダメです」と言うような強さは持ち続けていかなきゃ、とは思いますね。だからずっと暗黒期は抜け出せないのかもしれません。
── 日食さんは、何かを始めるときの怖さはないですか?
始めなかったときの怖さの方が強いですね。そこで朽ちて老いてしまうことの方が怖い。どこにも行かないまま安全な場所で、手に届く餌だけ食って肥えて死ぬみたいなことってすごく醜いなと思うので、それだけは絶対にしたくないなと思っています。もし失敗したとしても、自分の価値観が早いうちに崩れた分、そこから登り直すチャンスも早く来るじゃないですか。転がり落ちそうならむしろ早めに落ちて、そこがどれくらい深いかを先に見に行った方がいい。そこから這い上がれなくなったら辛いですけど、長い目で見たら「あいつはいつもどん底で苦しんでいる、けど結局は這い上がってくるからおもしろい」と言われるかもしれない。私はこれからもそうやって、貪欲に挑戦して生きていたいです。
子どもの頃、自分たちで遊びを作らなきゃいけなかった
── 日食さんは、小さい頃どんな子どもだったんですか?
活発な子どもでした。生まれたのが岩手県の花巻市という本当に何もない場所だったので、自分たちで遊びを作り出さなきゃいけなかったんです。周囲におもちゃ屋さんや公園もなく、木登りのバリエーションを増やしたり、ルールを作ったりして遊んでいました。
── 友達は多かったんですか?
男友達がすごく多かったです。体を動かすのが好きで、林や森や山の中をずっと駆けまわっていましたね。
── アグレッシブだったんですね。
そうですね。あとは、嫌なことや自分が違うなと思うことには意地でも一切振り向かない子どもでした。それは今でも変わらないです。
── それはご両親の影響とか……?
いや、それが、生まれたときからなんですよ。親が撮ってくれた小さい頃の写真が実家にたくさんあるんですけど、それを見ても笑ってる写真が全然なくて(笑)。反骨精神みたいなものは生まれつきあったのかな、と思います。
岩手を出たいと思ったことは、22年間で一度もなかった
── 上京されたのは23歳の頃だとお聞きしたのですが、それまで岩手を出たいと思われたことはなかったんですか?
なかったですね。23歳になって岩手を出たのも、「出たい」と思って出たのではなく、「岩手を出ることが、結果的に岩手のためになるんだ」と背中を押されるようにして出た感じで。
── なるほど。お話を伺っていたら、日食さんからは、1番になりたいとか負けたくないとか、ギラギラした精神をひしひしと感じます。
それは自分でもほんと正体がわからなくて。本当に生まれつきなんだろうなとしか言えないんです(笑)。
── そういうところが歌になったりするんですね。では最後に、岩手の若者に向けたメッセージをいただいてもよろしいでしょうか。
何か新しいことを為し得たいときって、絶対に既存の価値観とぶつかると思います。「そんなの今までなかったからやめなさい」とか「君にはできっこないから諦めなさい」とか、自分に反してくるものがたくさんあると思う。でも、そういった自分に反する意見は「うるせえ!」くらいのスタンスでいいと思います。岩手の人は優しいから、そういった自分への反対意見も受け入れて辛くなってしまうかもしれない。でもそれは心を鬼にしてでも、自分にいらないものはいらないと切り捨てる勇気を持つべきかなと思います。
編集後記
「諦められない」「放っておけない」ことは強さだと思う。世の中には、諦めた方が楽なことや放っておけばいいことがたくさんあるけれど、それらを放っておかずに声高々に叫び続けられることは強さなのだと思う。日食さんはその「強さ」を、音楽という手段で、強く、優しく、楽しそうに表現しているのだと思った。日食さんの歌が心に刺さるのは、どこか諦めきれない私たちの、どこか割り切れない私たちの心の奥底に残っている「強さ」を揺さぶってくれるからなのだろう。
ライター:明石悠佳 編集:稲垣佳乃子 撮影:橋本美花